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個人と社会の反転

珍しく競馬にまつわる戯言以外でちょっと書いてみる。といってもたまたま殿下のところ経由で知った話題であり、ブログ村に全くアンテナを張っていない自分ゆえ、議論の伏線なり展開なりを無視して、ということで。

元ネタで「没落エリート」と表現された状況とはちょっと違うかもしれないが、

 

興味深い本を最近読んだ。『高学歴ワーキングプア~ 「フリーター生産工場」としての大学院 ~(光文社新書) 』である。大学院の博士課程を修了しても目指すべき教員や研究者への道が狭く、30を越えてもなお安定した職につけずに生活困窮している者を描きつつ、その背景として大学院重視政策を推し進めた国の教育行政の責任について指弾している、といった内容である。

職能を得るために働きながら学校へ通ったりして社会に末席を得た立場からすると、「ちょっと見通し甘いよね。それだけアタマ良ければ自分の能力(と限界)だってわかるでしょ」という単純な反発感は当然感じた。教育行政の歪みといってしまえば簡単かもしれないが、でもその敷かれたレールを選択して乗ったのは誰なんですか、そのレールが行き止まりと解った時点でどういう努力をしているのですか、と。
高学歴ワーキングプアが全員とは言うまいが、そこには当然「社会を泳いでいく能力が欠けている」あるいは「企業社会から逃げている」と表現されうる一群も存在するはずだ。

しかし同時に、こうした「知的水準は高いが社会に適応できない(没落エリート論では<コミュニケーション能力が低い>)」層に対して、あまねく個人の問題であると断罪する向きに対しても、より大きい違和感を感じている。青臭い言い方になってしまうが結局のところ能力なりスキルなり指向なりは一人ひとり違う。相応の適応努力をしても今の経済社会システムになかなかフィットしない人間に対して、自己責任という便利なコトバを援用して結論付けてしまうことが建設的とは思えない。

悪いのは個人か社会か―そんな二元論で答えが出る問題ではないだろう。個人と社会とは相互作用によってお互いが影響を与え、規定され、変容する存在だからだ。

殿下がいみじくも指摘しておられるように、「既にある程度以上の知的能力っていう「モノ」が存在してるのだから、それを何がしか弄って出力するような」余裕は、確かに今の日本では存在しにくいのだと思う。知的能力という部分を別のターム(例えば創造性だったり勤勉性だったり)に置き換えてみてもよい。効率化の下に社会や企業のあり方が硬直化した結果、何かしらの突出した能力の存在を許し、それを活かすような<ハンドルの遊び>の余地が狭くなっているのだろう。社会に適応する能力が欠如している人間が増えた、というのは視点を反転させれば、さまざまな人間に適応する能力が欠如している社会になった、でもある。

まあそんなところで。一応ロスジェネ世代(笑)に属する自分も、社会に出るキワでそれなりに苦労をした気がするが、そんなときに競馬と競馬仲間にはずいぶんと救われましたな。ありがたや。

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