文章という不自由
世のブロガーの皆さんがどうなのか実はよく知らないが、自分は下書きをしてから文章を公開している。競馬関係のエントリにせよ、つぶやき的なそれにせよである。そして公開したページを実際に見て、段落の長さや判りにくい表現を手直しすることもある。
まはる殿下の更新にちょっと反応してのエントリということで。
もともと文章というものは不自由なものだ。
対人コミュニケーションにおいて「伝える内容」に劣らず「伝え方」が大事であるということは、私たちが実体験で知ることだし、心理学の実験でも後者の情報量がより多いという結果が明らかにされている。つまり声のトーンや大きさ、表情やジェスチャーといったノンバーバル(非言語)な要素がとても重要であるというわけ。
ゆえに存在そのものがバーバルである文章は、まあフットワークを封じられたボクサーのようなものだ。
そして一方、不自由であるがゆえに発達するスキルもいくつかあるのだと思う。
一つは文章力。これはボキャブラリーであったり正しい文法であったり適切な言い回しであったり、そういったモノを含めて純粋な意味での「上手に文章を書く能力」ということだ。文章が余りに拙いと、せっかくの素晴らしい内容もまた幼いものに感じてしまう。
もう一つは文章のプレゼン力。手書き文字なら活字以上に想いや雰囲気を伝えられることもあるし、メールの顔文字や絵文字は表情の代替である。仲間内のコトバを用いることも、親しみというメッセージが乗せられている。ノンバーバルな部分をいかにして伝えるかというスキルである。
そして一番大事だと思う想像力。要するにこの文章を読んだ相手はどう感じるだろうか、という感受性である。ダイレクトに反応が見られない文章は、話し言葉よりもそうした配慮や気遣いが必要なのだ。
自分と同世代以上なら、例えばPCやメールがなかった中高時代に好きなコに手紙を書こうとしたり、レポートを何度も書き直してみたりというアナログな体験が普通にあるはずだ。また個人的な経験でいうと学生新聞や競馬ミニコミ誌に関る中で、一つの文章を書くのに推敲を何度も重ねていた。そうした試行錯誤の中で文章力・プレゼン力・想像力が自然と鍛えられていたと思う。
文章の持つ可能性と、限界とを、そうやって体感してきたと。
さて、前置きばかりが長くなったが、「ハッピーをネットで共有するのは無理すぎる」で思ったこと。
同じ価値基盤に立つからこそ同調もできる(例えば)ハッピーといった感情を、そもそも不特定多数が読者たりうるネット上で共有すること自体がそもそも難しいのではあるが、上記のようなスキルと<文章の限界>に自覚が乏しい書き手であればなおさら、という面も大きいのだと思う。
ただしまはる殿下のいうところの”発声する声の大きさ”的な部分=ノンバーバルな部分で、このメディアにはまだまだ発展の余地はあることだろう。
そして逆に、<文章の可能性>なんて青臭いものを最初から期待しない方向に突き抜けているのが、改行なんてうぜぇというホリエモン。
それはそれで潔いのだとは思うけど、自分とはやっぱり感覚が違うのねと。
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