しなやかにして果断~ヤマニンの流儀(前)
1979年―
スリーマイル島原発事故が発生し、自民党が過半数割れを起こして政局は混乱し、ソニーがウォークマンを発売した。スポーツ界では「江夏の21球」で広島が初の日本一、東京優駿(日本ダービー)では父の無念をカツラノハイセイコが晴らした年である。
そして日本から一頭の繁殖牝馬が、種付けのためにアメリカへと旅立っていった。
名をヤマホウユウという。
「アイツは何を考えているだ?」
「高い金をドブに捨てるようなもんだ」
錦岡牧場の土井が自身の所有する牝馬ヤマホウユウをわざわざアメリカに運んで種付けをするという。相手のBlushing Groomはフランスで2000ギニーなど重賞を5勝した名馬ではあったがスタッドインしてまだ2年、種牡馬としては未知数である。しかも日本で供用されている全兄*ベイラーンは難しい気性で知られていた。
土井の行動を陰で”愚行だ”と嗤う向きがいたとしても、無理なからむことであった。
答えは13年後、府中の芝の上で明かされることになる。
持続性のあるスピードでマイル路線を席捲(安田記念を連覇)した後、93年秋の天皇賞をも手中としたヤマニンゼファー。父は本邦の名マイラー・ニホンピロウイナー、母はヤマニンポリシー。そのヤマニンポリシーは他でもない、あのヤマホウユウがBlushing Gloomの種を宿して帰郷し、産まれた牝馬であった。
Blushing Gloom自身が種牡馬として、あるいはBMSとして類まれな資質を持つこともまた歴史が証明しつつあり、それは同時に土井の先見性が証明されたことを意味していた。
「ヤマニン」を冠名とするオーナーブリーダー土井一族は、ヤマホウユウ以前より積極的に海外へと目を向けては、新しい血を導入してきた。所有繁殖を海外に送り、先端にある在外名馬を種付けしては輸入するという手法の実践。これによって、激動の時代における橋頭堡を築いていたのである。
もちろんそんな中には芳しくない結果に終った例も少なくはない。たとえばMill Reef産駒の*ヤマニンケイ、Bold Bidder産駒の*ヤマニンビッダーは凡庸な競走馬に終わり、種牡馬入りした後も目立った成績を残すことができなかった。*ヤマニンセクレも”ビッグ・レッド”ことSecretariat産駒という期待に応えたとはいい難いだろう。
一方で競走馬として大成しなかったものの、種牡馬としてはG1馬2頭(ライトカラー、ヤエノムテキ)を筆頭に重賞馬を複数出す成功を収めたのがヤマニンスキー。同馬は父がNijinsky×母父Buckpasserだから、未だに「アレが最強馬だ」という主張も根強いマルゼンスキーと同じ配合になるが、サイアーNijinskyのポテンシャルもマルゼンスキーの天賦もつまびらかにはなっていない(マルゼンの1歳下)時期に導入しているのだから、決して二番煎じの謗りを受けるものではなかった。
(続く)
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