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派遣村報道に思う

たまには競馬とは離れた話題で。

この不況下における非正規労働者の解雇(いわゆる派遣切り)が社会問題化する中、最もシンボリックな動きとして注目を集めたのが年末年始の”派遣村”だった。この寒空の下で寝る場所にすら事欠く人々に対して応急支援が行われるのは当然だろうし、そういう貧困を他人事ではなく隣の問題としてとらえるべきとは思った。

さて、自営業をしている親類のお客さんに民間の立場(NPO)でホームレス支援に携わっている方がいて、先日これに関して話を聞く機会があった。そこで感じたことなど。

まず何よりも、日本のセーフティネットの脆弱さを実感したところだ。派遣という労働形態には功罪あるにせよ、職を失うと同時に住をも失い路頭に迷うというのはいくらなんでもおかしいだろう。昔のように家族や地域での支えあいが強くはない現在、失業保険などがもっと強力に機能するよう、制度的な見直しは必要だ。

さて、東京の真ん中・日比谷公園に設置された派遣村に集まった”村民”は500人近くなったが、秋以降に解雇された”派遣切り”だけでなく、半数近くはもともとホームレスだったりネットカフェで暮らしていたりという層もいたらしい。つまり小さすぎて視認されなかった(視認されても黙殺されていた)貧困が、派遣村という旗印の下で大きく運動化され報道されて「カタチ」を得たわけで、この活動の本当の意義はそこにあったのだろう。

そういう意味でこの派遣村という訴求力の強いネーミングと場所(霞ヶ関の真ん前)は非常に効果的であり、ある種作戦勝ちだったのだと思う。

またこれに関する対応が二極化しがちなのも興味深い。
一つはマスコミを中心とした「企業や労働・福祉行政が加害者であり彼らは被害者である。行政はもっと手厚く支援をするべきだ」という主旨の論調。他方で「選り好みしなければ仕事はある。自己責任なんだからもこれ以上の支援は必要ない」といった意見がネット上では飛び交っているのである。

かく言う自分も、当初は前者の意見に近かったが、税金を原資にした生活保護が一斉支給されたという報道あたりからスイングして後者の主張にも同調を感じるようになっていた。このあたりを訊いてみたところ件の支援者は、派遣村だけでなく普段の彼の活動とも共通することとして「白か黒かの感情的な論戦になって、一人ひとりの生活を支えるという本質が見えなくなるのが怖い」と言っていた。

自分なりに咀嚼してみるとこういうことだ。
「ホームレス」や「ネットカフェ難民」や「派遣切り」というタームは貧困問題を浮かび上がらせるだけの揚力を持つが、反面でカテゴライズされたことで逆に個々人の状況が見えにくくなっている。

貧困に至った原因はみな違い、職能だとか健康状態とか適応力だとかの「生きていくスキル」も異なる。再び同じ状態に戻らないためにはそのあたりの把握と対応が必要だろうし、それは一律にお金を渡して(あるいは渡さないで)解決する問題ではないのだろう。

生命の危機に晒されるような状況に対しては緊急避難的な支援でもよいが、大事なのはその後。権利を主張するだけでも自己責任論だけでもなく、柔軟で効率の良いサポートの仕組みをどう作るかだ。

知識や感情をぶつけ合うだけでは出口は見出せない。今の時代に最も問われているのは「知恵」なのであろう。

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