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果ての春雷 ~早田牧場85年略史③

<1972年・オンタリオ>

嘘か誠か-
久方ぶりに誕生した男子に湧く旧家、そこへやって来た山伏は「この子の背後には馬頭観音がついている」と告げたという。

職業軍人を退官し県庁に職を得ていた10代目傅之助を父に持つその子が、後に牧場の名を轟かすことになる早田光一郎その人である。

光一郎はもともと馬にさほど興味を持つわけではなかったという。しかし高校で乗馬に出会い、実家が40ヘクタール程で続けていた馬産を生業にする志を持つようになると、北里大学で獣医学を学んだ後に見聞を広めるべく、1972年カナダに渡った。

彼が学んだのは、J. Mooneyがオンタリオ近郊に所有していたナシュヴィル・スタッドである。

父が馬主であったMooneyは北米各地の競馬場で働いたホースマンで、オークローン競馬場の経営に携わっていた際に才覚を見込まれ、1957年にオンタリオ・ジョッキークラブのマネージャーに就任した。その後はカナダの競馬産業の要職を歴任し、ウッドバインのカナダ国際(G1)を一流レースに育てるなど同国の競馬発展の父とも呼べる存在なのである。

そしてMooneyを母国カナダに呼び戻したのは、Northen Dancer(61年生)やNijinsky(67年生)を生産して世界の馬産界を席巻することになる、かのE.P.テイラー。

ナシュヴィル・スタッド自体は決して大きな規模の牧場ではなかったが、テイラーとも遠からぬ関係にあったといえる。この巨星二人を近しい位置で学ぶ僥倖を得て、早田光一郎は何を感じ何を内面化したのだろうか。

ちなみに彼がオンタリオで研鑽を積んでいたころ、後に妻となる由貴子もカリフォルニア大学デービス校に留学している。大学の同級生であった彼女は猫を専門とする獣医であり、また結婚後は牧場を裏から支える大事な存在となった。

光一郎は73年、定年を迎えた父親が「好きにしろ」と差し出した退職金を使い、セールで1頭の2歳馬を手に入れた。テイラーのウインドフィールズファームで生まれた牝馬に早田はMomigi(モミジ)と名を授けたが、カナダのシンボルたるメイプル=楓を、モミジと勘違いしていたのはご愛嬌というものだろう。

ともあれ*モミジは3歳時から5歳時にかけてブリーダーズSやナイアガラHなど44戦12勝と活躍、同国の最優秀3歳牝馬や最優秀芝馬などのタイトルも得た一流馬に育つのだった。獲得した賞金は、当時のレートで約1億円にも上ったという。

現在の価値に換算すれば何倍にもなろうこの果実と、自身の生命保険を担保にした借財とを元手に、光一郎は早田牧場を新たな地平へと導くのだ。

ところで時前後する72年には同じくテイラー生産の牡馬を、社台の吉田照哉がサラトガセールで落札している。その栗毛馬*ノーザンテーストは現役時にフォレ賞を勝ち、種牡馬としても社台グループの礎を固めることになるわけだが、早田も吉田も当時はそんな運命のすれ違いを知る由もない。

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