« 果ての春雷 ~早田牧場85年略史①  | トップページ | 果ての春雷 ~早田牧場85年略史③ »

果ての春雷 ~早田牧場85年略史②

<1917年・福島>

江戸時代に五街道の一つに数えられた奥州街道は、日本橋から宇都宮を経て白川(現在の白河市)に伸び、白川以北の仙台道・松前道と一体を成して遙か青森は油川までを結んでいた。その途中、福島の北方に位置する伊達藩・桑折(こおり)宿の追分で二手に分岐した筋を、西側に進路をとれば出羽国を縦断した脇往還である羽州街道に入る。

現在は秋田藩の参勤交代に賑わった当時の姿はすでに失われているものの、前方に半田山を眺めつつしばらく進むと左手に見えてくるひときわ大きな屋敷が、ここはいにしえの街道筋であることを物語っている。
街の文化財にも指定されているそれが早田傅之助邸である。

早田家は江戸時代後期に力を付け、この地域の発展に寄与した豪農・素封家だ。
天保の大飢饉の際には他藩から助けを求めて来た人々を救ったと伝えられ、また私財を投じて「大難所なり、馬足ならず」とされた小坂峠の改修を行った。幕末には政府が手を引いた半田銀山の経営を引き継ぐなどの活躍が今にも語り継がれている。

1917年(大正6年)、9代目となる早田傅之助はこの桑折の地に牧場を開設した。

日清・日露戦争の苦い経験を契機に軍馬改良が国策となり、その具体策として第一次馬政計画が実行に移されていた。他方、在来種の三春駒が明治天皇の御料馬としても供されるなど、福島地方はそもそも歴史のある馬産地でもある。

そんな背景の中、我が国でも最も古いサラブレッド生産牧場のひとつである早田牧場の、ここに第一歩が刻まれたのである。三菱財閥の岩崎久弥がイギリスから岩手・小岩井牧場に基礎牝馬群を輸入した10年後、そして吉田善助が後の社台ファームの原点となる社台牧場を白老に開く11年前のことだった。

その後、男子に恵まれなかった早田家は婿養子を迎えた。島津藩出身の10代目早田傅之助は、学習院(旧制高校)から進んだ東京帝国大学で獣医学を修めた後に、職業軍人となっている。

黎明の時期、だった。

福島の牧場は戦前戦中の混乱期も馬の生産を続けてはいたものの、それは細々とした規模に留まっていた。さらに敗戦後は農地開放の影響で、地主であった早田家は多くの土地を失う憂き目にも遭う。

昭和21年に再開された競馬は8年後に日本中央競馬会による開催となり、戦後の競馬界は発展の時代を迎えていたが、早田牧場の名がその表舞台に主役として現れるまでには、まだまだ長い年月が必要とされる。

|

« 果ての春雷 ~早田牧場85年略史①  | トップページ | 果ての春雷 ~早田牧場85年略史③ »

馬*その他」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/223066/50624014

この記事へのトラックバック一覧です: 果ての春雷 ~早田牧場85年略史②:

« 果ての春雷 ~早田牧場85年略史①  | トップページ | 果ての春雷 ~早田牧場85年略史③ »