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2011年1月

果ての春雷 ~早田牧場85年略史④

<1978年・新冠>

カナダでの武者修行を終えて福島に戻った早田光一郎は1978年、北海道の新冠に土地を求めて牧場を開設する。当初は孝行娘*モミジにちなんでモミジファームと名付けられたそれが、後の早田牧場新冠支場というわけだ。

彼が目指したのは堅実な家族経営の牧場でも、系統繁殖を志向するオーナーブリーダーでもない。質量ともに、あるいは名実ともに認められる”日本一の生産牧場になる”という野心の炎が宿っていた。
「10年以内にダービーを獲る」
そう自らを鼓舞し、目標に向かって疾走し始めたのである。

その象徴が名馬*ヴァイスリーガル。

Northen Dancerの初年度産駒である同馬は、2歳時に8戦8勝でカナダの年度代表馬に選ばれ、種牡馬としても75年~77年に同国のリーディングサイアーに君臨していた。この*ヴァイスリーガルを鳴り物入りで招き入れたのを皮切りに、早田牧場は種牡馬事業にも臆せず関わっていく。80年代から早田が導入に関わったと推察される種牡馬を列挙しよう。本邦での初共用の年次と、括弧内には代表的な勝ち鞍を付記する。

80年 *サティンゴ(仏グランクリテリウム)
   *ダンサーズイメージ(KYダービー1着失格/ウッドメモリアルS)
82年 *ハバット(ミドルパークS)
83年 *ホットスパーク(フライングチルダーズS)
   *マナード(仏グランクリテリウム)
87年 *ミルフォード(プリンスオブウェールズS)
   *イルドブルボン(”キングジョージ”)
88年 *カーホワイト(イスパーン賞)
89年 *リヴリア(ハリウッド招待)
90年 *ブライアンズタイム(フロリダダービー)
91年 *ペイザバトラー(JC)

錚々たる面子と言ってよいがしかし、これら種牡馬たちの多くは寄せられた期待に応えたとは言い難かろう。*ヴァイスリーガルはゴールドシチーを輩出した程度に終わり、大種牡馬の道を歩んだのは皮肉にも競走成績では劣った全弟のVice Regentである。

また*ダンサーズイメージや*イルドブルボンは自身も大物で種牡馬としても彼地で実績を残していたが、本邦の競馬ではそれに相応しい果実を実らせることがなかった。*リヴリアはクラシックホースを出したものの早逝の憂き目に遭い、JC馬*ペイザバトラーはたった1世代しか残せていない。

*ブライアンズタイムは現在でも活躍馬を送り出す大種牡馬だが、本来は北米最優秀ターフホースに輝いた*サンシャインフォーエバーが意中であった。交渉が不調に終わり、血統構成が酷似していたため購入されたその「代用品」が、後に早田躍進の象徴的な存在となり、またその運命を大きく揺さぶることになるのだから、皮肉なものである。

一方、牧場生産馬の成績も早田の目論見どおりには上向かない日々が続く。

雌伏の時代にあった牧場の経営に余裕などあるはずもない中、そこは後に自身を「ぼくは借金と錬金術の天才です」と冗談交じりに評する男の真骨頂で徐々に繁殖を増やしていた。しかしダービーどころか重賞を勝つ馬すら出ず、それは86年のロイヤルシルキー(クイーンS)まで待たねばならなかった。

硬直的だった種牡馬株の流通システムにも風穴を開けた異端児に、馬産地では冷たい視線も少なくなかった。アレがビッグマウスの早田か、何が日本一だ・・口さがない向きは嘲笑の声を上げたに違いない。

それでも光一郎は種を撒き続ける。キーンランド・ノベンバーやニューマーケット・ディセンバーなど主要なセールには欠かさず足を運んでは有望な繁殖を探した。同郷の阿部善男オーナーの支援に加えてバブル景気にも乗り、78年に生産頭数5頭でスタートした新生早田牧場は90年初頭、50頭余の幼駒を産み出す規模に達している。

萌芽の予感。

そして新冠に支場を開いて13年。*ダンサーズイメージを母の父に持つレオダーバンが91年クラシックに駒を進め、菊花賞を鮮やかな末脚で勝つに至って、早田牧場はようやくG1ホースの生産牧場という名誉を浴することになるだった。

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果ての春雷 ~早田牧場85年略史③

<1972年・オンタリオ>

嘘か誠か-
久方ぶりに誕生した男子に湧く旧家、そこへやって来た山伏は「この子の背後には馬頭観音がついている」と告げたという。

職業軍人を退官し県庁に職を得ていた10代目傅之助を父に持つその子が、後に牧場の名を轟かすことになる早田光一郎その人である。

光一郎はもともと馬にさほど興味を持つわけではなかったという。しかし高校で乗馬に出会い、実家が40ヘクタール程で続けていた馬産を生業にする志を持つようになると、北里大学で獣医学を学んだ後に見聞を広めるべく、1972年カナダに渡った。

彼が学んだのは、J. Mooneyがオンタリオ近郊に所有していたナシュヴィル・スタッドである。

父が馬主であったMooneyは北米各地の競馬場で働いたホースマンで、オークローン競馬場の経営に携わっていた際に才覚を見込まれ、1957年にオンタリオ・ジョッキークラブのマネージャーに就任した。その後はカナダの競馬産業の要職を歴任し、ウッドバインのカナダ国際(G1)を一流レースに育てるなど同国の競馬発展の父とも呼べる存在なのである。

そしてMooneyを母国カナダに呼び戻したのは、Northen Dancer(61年生)やNijinsky(67年生)を生産して世界の馬産界を席巻することになる、かのE.P.テイラー。

ナシュヴィル・スタッド自体は決して大きな規模の牧場ではなかったが、テイラーとも遠からぬ関係にあったといえる。この巨星二人を近しい位置で学ぶ僥倖を得て、早田光一郎は何を感じ何を内面化したのだろうか。

ちなみに彼がオンタリオで研鑽を積んでいたころ、後に妻となる由貴子もカリフォルニア大学デービス校に留学している。大学の同級生であった彼女は猫を専門とする獣医であり、また結婚後は牧場を裏から支える大事な存在となった。

光一郎は73年、定年を迎えた父親が「好きにしろ」と差し出した退職金を使い、セールで1頭の2歳馬を手に入れた。テイラーのウインドフィールズファームで生まれた牝馬に早田はMomigi(モミジ)と名を授けたが、カナダのシンボルたるメイプル=楓を、モミジと勘違いしていたのはご愛嬌というものだろう。

ともあれ*モミジは3歳時から5歳時にかけてブリーダーズSやナイアガラHなど44戦12勝と活躍、同国の最優秀3歳牝馬や最優秀芝馬などのタイトルも得た一流馬に育つのだった。獲得した賞金は、当時のレートで約1億円にも上ったという。

現在の価値に換算すれば何倍にもなろうこの果実と、自身の生命保険を担保にした借財とを元手に、光一郎は早田牧場を新たな地平へと導くのだ。

ところで時前後する72年には同じくテイラー生産の牡馬を、社台の吉田照哉がサラトガセールで落札している。その栗毛馬*ノーザンテーストは現役時にフォレ賞を勝ち、種牡馬としても社台グループの礎を固めることになるわけだが、早田も吉田も当時はそんな運命のすれ違いを知る由もない。

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果ての春雷 ~早田牧場85年略史②

<1917年・福島>

江戸時代に五街道の一つに数えられた奥州街道は、日本橋から宇都宮を経て白川(現在の白河市)に伸び、白川以北の仙台道・松前道と一体を成して遙か青森は油川までを結んでいた。その途中、福島の北方に位置する伊達藩・桑折(こおり)宿の追分で二手に分岐した筋を、西側に進路をとれば出羽国を縦断した脇往還である羽州街道に入る。

現在は秋田藩の参勤交代に賑わった当時の姿はすでに失われているものの、前方に半田山を眺めつつしばらく進むと左手に見えてくるひときわ大きな屋敷が、ここはいにしえの街道筋であることを物語っている。
街の文化財にも指定されているそれが早田傅之助邸である。

早田家は江戸時代後期に力を付け、この地域の発展に寄与した豪農・素封家だ。
天保の大飢饉の際には他藩から助けを求めて来た人々を救ったと伝えられ、また私財を投じて「大難所なり、馬足ならず」とされた小坂峠の改修を行った。幕末には政府が手を引いた半田銀山の経営を引き継ぐなどの活躍が今にも語り継がれている。

1917年(大正6年)、9代目となる早田傅之助はこの桑折の地に牧場を開設した。

日清・日露戦争の苦い経験を契機に軍馬改良が国策となり、その具体策として第一次馬政計画が実行に移されていた。他方、在来種の三春駒が明治天皇の御料馬としても供されるなど、福島地方はそもそも歴史のある馬産地でもある。

そんな背景の中、我が国でも最も古いサラブレッド生産牧場のひとつである早田牧場の、ここに第一歩が刻まれたのである。三菱財閥の岩崎久弥がイギリスから岩手・小岩井牧場に基礎牝馬群を輸入した10年後、そして吉田善助が後の社台ファームの原点となる社台牧場を白老に開く11年前のことだった。

その後、男子に恵まれなかった早田家は婿養子を迎えた。島津藩出身の10代目早田傅之助は、学習院(旧制高校)から進んだ東京帝国大学で獣医学を修めた後に、職業軍人となっている。

黎明の時期、だった。

福島の牧場は戦前戦中の混乱期も馬の生産を続けてはいたものの、それは細々とした規模に留まっていた。さらに敗戦後は農地開放の影響で、地主であった早田家は多くの土地を失う憂き目にも遭う。

昭和21年に再開された競馬は8年後に日本中央競馬会による開催となり、戦後の競馬界は発展の時代を迎えていたが、早田牧場の名がその表舞台に主役として現れるまでには、まだまだ長い年月が必要とされる。

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果ての春雷 ~早田牧場85年略史① 

2010年の年度代表馬に輝いたブエナビスタ。ノーザンファーム生産/サンデーレーシング所有というこの傑物に、他の社台馬とは違うある種の感情が湧き上がるのは、母ビワハイジという名のゆえであるのは間違いない。

早田牧場新冠支場。

ビワハイジやナリタブライアンを筆頭に20世紀最後の10年、本邦競馬界へ名馬を送り出したその牧場は、今はもう存在しない。現在8歳になった最後の世代が全て引退すれば、その名を生産者欄に目にすることも永遠になくなる。

その早田牧場はいかにして生まれ、消えて行ったのか。次回から数回に分け、85年に渡るその轍(わだち)を概観してみたいと思う。

*以降の文中は敬称略。また明らかな事実誤認があればご指摘頂きたい。

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Blog上の演出です

テレビCMにときおり見られる「これはCM上の演出です」という表示にそこはかとない違和感を感じていたクチだが、ちょっとgoogle師匠に聞いてみたら同じような感想を持つ方は結構いるらしい。

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社台×ダーレー

社台スタリオンステーションの’10種付け牝馬リストを眺めている。

昨年の新顔では*チチカステナンゴが140頭を集めていて、中でも社台グループはBMSがサンデー系の牝馬がズラリと並び、これはある意味予想通りではある。

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謹賀新年

いつもながら「今さら」ではありますが、新年あけましておめでとうございます。

昨年はTwitterにちょっとリソース(時間やモチベーション)を割いてしまったこともあり、こちらは手抜き気味になってしまっています。

続けようかどうか迷う部分もあるのですが、まあそもそも速報性なり資料価値なり、そんなモノとは無縁の独り言であるわけで、自分で変にハードルを上げずにボチボチ書けるときに書いていこうかと思い至っております。

では今年もよろしくお願いします。

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