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果ての春雷 ~早田牧場85年略史⑥

<1997年・暗転>

早田牧場が成功の階段を駆け上がっていた90年代前半、日本の競馬界は大きな転機に直面していた。

GATTウルグアイ・ラウンドにより競走馬の輸入関税引き下げが決まり、JRAでは外国産馬の出走緩和プランが実行に移された。外国産馬のクラシック出走も空想ではなくなりつつあった。

抗えぬ国際化の波は国内の生産者たちに大きな動揺と刺激を与えたが、同時にその中から新たな動きも活発となる。*サンデーサイレンスや*ダンシングブレーヴ、*ラムタラなどのビッグネームが種牡馬として導入され、あるいは育成の重要性がさらに認識される中で、92年のBTC開場をひとつの契機として生産と育成の分業が本格化したのもその一つの現れであった。

そんな中で光一郎の生産理念はある意味明快だった。競走馬は生き物だが同時に商品である、工業製品と同様に品質を維持することが絶対に必要であるのだと。

その方策の一つが生産拠点の海外移転である。94年には既に雑誌のインタビューでニュージーランドを具体的な移転候補に挙げ、「いい品質の馬ができて、労働力が優秀でコストの安い国で馬を生産するしかない」と発言している。

一方で国内についても投資を続ける。96年にはかの*サンシャインフォーエバー、98年には*ブラッシングジョンと投機的な事業である種牡馬の導入も続け、牧場の生産頭数も徐々に増やして2000年の時点では80頭を超えている。

さらに関連事業として一口馬主のシルクホースクラブ、育成施設である天栄ホースパークなどまさに全方位拡大路線を採り続けた。光一郎は上記記事の中で、生産から入厩まで一貫して自社管理することにより生産馬の質を担保していくという戦略を示唆しているが、その具現とも言えるだろう。

しかし舞台の暗転は徐々に迫っていた。

1997年(平成9年)は消費税引き上げやアジア通貨危機を引き金に日本経済が一気に冷え込んだ。山一證券やヤオハンなどの大企業を始め、北海道拓殖銀行も経営が破綻。日本の競馬産業にとっても、バブル崩壊の後すら伸び続けてきたJRAの総売上がこの年の4兆162億円をピークとして、ついに減少に転じ始めたエポックの年となる。言うまでもなく経済の失速は競走馬の購買層にも大きな影響を与えた。いわゆる「馬産地不況」という言葉が使われ始めたのもこの頃だった。

翌1998年(平成10年)は早田牧場にとって大きな喪失の年となった。種牡馬入りしていた3冠馬ナリタブライアンが9月に胃破裂を発症、安楽死処分となったのだ。産駒を残せたのは2世代だけだった。20億円を超えるシンジケートが組まれ、*ブライアンズタイムの後継として大きな期待をかけられていたシャドーロールの怪物の不遇の死が、どれほどの精神面と実利面の打撃を与えたろう。

*サンデーサイレンスの猛威を後ろ盾に、厳しい状況の中でセレクトセールを成功させた社台グループがその勢力を増す一方、早田牧場の種牡馬は苦戦を強いられ、また生産者としてのランクもこの年は4位、翌年は9位と数字を下げていくのである。

さらにこの年の暮れには光一郎の父が逝去する不幸も重なっている。

不況の波は馬産地全体に波及したが、投資というアクセルを思い切り踏み込んでいた早田牧場にとって、その加速の分だけ受ける衝撃は大きく深いものとなった。そしてさらに事業の空転が拍車をかけた。

遙かなる高みを目指して必死に岩壁を登り続けていた光一郎が、ふと気づくと、次に歩みを進めるべき足場はなかった。上へ登る体力も、下へ引き返す途も残されていなかった。美しい景色としてその目に映っていた眼下の眺望に、恐怖を覚えた。

暗転。

そして手を伸ばしたのだ、禁断の命綱に。

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