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2011年2月

ななひかり

数日前、Rachel AlexandraがCurlinを種付けしたというニュースが流れてきた。
Rachelは人気でも実績でもすっかりZenyattaに差をつけられてしまったけれど、個人的にはKYオークスのころからファンだったし、Curlin>Big Brown派でもあったから、両馬の交配というのは実に楽しみではある。まあオーナーが同じだから予想はされていたのだけれど。

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果ての春雷 ~早田牧場85年略史⑦

<2002年・札幌>

歯車が逆回転を始めた早田牧場の転落は止まらなかった。

詳細な内部状況をここで知る由もないが、もともと負債による大規模投資を繰り返してきた牧場の財務が、90年代後半に訪れた潮目の変化に対応できず一気に悪化したのは間違いだろう。早田牧場には光一郎が経理の責任者として全幅の信頼を置く触沢剛文がいたが、牧場の運営に逼迫した光一郎が触沢と共に種牡馬管理団体の資金を流用していたことも、後年明らかになっている。

ついに早田牧場の自己破産申し立てが報じられたのは、2002年11月のことであった。当時の記事を抜粋する。

2002年(平成14年)11月22日

農事組合法人資生園早田牧場(競走馬生産・育成・調教。出資金1億円、福島県伊達郡桑折町北半田御免町35)は、関連会社の(有)早田牧場、(株)セントラル・ブラッドストック・サービスとともに、札幌地裁へ自己破産の申立て。

負債は、資生園早田牧場が債権者約147名に対し約50億5200万円、(有)早田牧場が債権者約19名に対し約2億6100万円、(株)セントラル・ブラッドストック・サービスが債権者約50名に対し約4億9900万円で、3社合計では約58億1200万円 2002年(平成14年)11月25日、破産宣告。

早田牧場の繁殖牝馬たちと、CBスタッドに繋養されていた種牡馬は散り散りとなった。牧場開設から85年、支場開場から24年、栄華を誇った90年前半からわずか10年足らず。国際化前夜の時代に挑み、バブル景気の時代に乗り、名馬の時代に祝福された早田牧場は、20世紀の終わりと共に墜ちていったのである。

<2005年・福島>

6月。種牡馬*ブライアンズタイムを所有していた団体の資金を牧場経営に流用したとして、業務上横領で起訴されていた早田光一郎に下された判決は、懲役5年の実刑だった。札幌地裁で行われた公判中、弁護側は「社台ファームを追い越せとの思いから、過度の設備投資をして資金に窮した」と陳述した。

90年代競馬ブームを彩った早田牧場は、全力で駆け抜け、そして儚く散った。

光一郎が罪を犯した事実は消えるべくもないし、また彼をブリーダーとしてどう評価するかは視座により論の分かれるところであろう。しかし大きな野心を抱いた彼のバイタリティが、多くの人々の熱と欲を巻き込みながら早田牧場の名の下に、競馬史に名を残すあまたの名馬を生み出した事実だけは、確かである。

そしてその遺産は今も、ブエナビスタを始めとして豊穣な収穫を私たちに与えている。

そして再び、福島県桑折町。

地裁判決の3ヶ月前、まだまだ肌寒い2005年3月20日。
半田山麓に広がる早田牧場跡地の「早田の馬場公園」では、花信風の中で植樹祭が行われていた。街の活性化を目指すNPO法人が中心となり、この地域で桜の植樹事業が開始されたのだ。初年度に植えられた219本は春と初冬に花を咲かせる品種で、今後15年にわたり500種3万本が植樹される計画だという。

そこに遙けき88年前にも入れられたであろう開墾の鍬は今、来賓の形式的なそれに変わっていた。しかし変わらないのは、そこに未来への苗が植えられ始めたたということだ。

長い旅路の果ての春雷。季節は移ろいゆく。何度も巡る。

儚く散る桜を仰ぎ見るたびに思い出そう、早田牧場が放った眩い輝きを。

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果ての春雷 ~早田牧場85年略史⑥

<1997年・暗転>

早田牧場が成功の階段を駆け上がっていた90年代前半、日本の競馬界は大きな転機に直面していた。

GATTウルグアイ・ラウンドにより競走馬の輸入関税引き下げが決まり、JRAでは外国産馬の出走緩和プランが実行に移された。外国産馬のクラシック出走も空想ではなくなりつつあった。

抗えぬ国際化の波は国内の生産者たちに大きな動揺と刺激を与えたが、同時にその中から新たな動きも活発となる。*サンデーサイレンスや*ダンシングブレーヴ、*ラムタラなどのビッグネームが種牡馬として導入され、あるいは育成の重要性がさらに認識される中で、92年のBTC開場をひとつの契機として生産と育成の分業が本格化したのもその一つの現れであった。

そんな中で光一郎の生産理念はある意味明快だった。競走馬は生き物だが同時に商品である、工業製品と同様に品質を維持することが絶対に必要であるのだと。

その方策の一つが生産拠点の海外移転である。94年には既に雑誌のインタビューでニュージーランドを具体的な移転候補に挙げ、「いい品質の馬ができて、労働力が優秀でコストの安い国で馬を生産するしかない」と発言している。

一方で国内についても投資を続ける。96年にはかの*サンシャインフォーエバー、98年には*ブラッシングジョンと投機的な事業である種牡馬の導入も続け、牧場の生産頭数も徐々に増やして2000年の時点では80頭を超えている。

さらに関連事業として一口馬主のシルクホースクラブ、育成施設である天栄ホースパークなどまさに全方位拡大路線を採り続けた。光一郎は上記記事の中で、生産から入厩まで一貫して自社管理することにより生産馬の質を担保していくという戦略を示唆しているが、その具現とも言えるだろう。

しかし舞台の暗転は徐々に迫っていた。

1997年(平成9年)は消費税引き上げやアジア通貨危機を引き金に日本経済が一気に冷え込んだ。山一證券やヤオハンなどの大企業を始め、北海道拓殖銀行も経営が破綻。日本の競馬産業にとっても、バブル崩壊の後すら伸び続けてきたJRAの総売上がこの年の4兆162億円をピークとして、ついに減少に転じ始めたエポックの年となる。言うまでもなく経済の失速は競走馬の購買層にも大きな影響を与えた。いわゆる「馬産地不況」という言葉が使われ始めたのもこの頃だった。

翌1998年(平成10年)は早田牧場にとって大きな喪失の年となった。種牡馬入りしていた3冠馬ナリタブライアンが9月に胃破裂を発症、安楽死処分となったのだ。産駒を残せたのは2世代だけだった。20億円を超えるシンジケートが組まれ、*ブライアンズタイムの後継として大きな期待をかけられていたシャドーロールの怪物の不遇の死が、どれほどの精神面と実利面の打撃を与えたろう。

*サンデーサイレンスの猛威を後ろ盾に、厳しい状況の中でセレクトセールを成功させた社台グループがその勢力を増す一方、早田牧場の種牡馬は苦戦を強いられ、また生産者としてのランクもこの年は4位、翌年は9位と数字を下げていくのである。

さらにこの年の暮れには光一郎の父が逝去する不幸も重なっている。

不況の波は馬産地全体に波及したが、投資というアクセルを思い切り踏み込んでいた早田牧場にとって、その加速の分だけ受ける衝撃は大きく深いものとなった。そしてさらに事業の空転が拍車をかけた。

遙かなる高みを目指して必死に岩壁を登り続けていた光一郎が、ふと気づくと、次に歩みを進めるべき足場はなかった。上へ登る体力も、下へ引き返す途も残されていなかった。美しい景色としてその目に映っていた眼下の眺望に、恐怖を覚えた。

暗転。

そして手を伸ばしたのだ、禁断の命綱に。

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果ての春雷 ~早田牧場85年略史⑤

<1994年・東京>

レオダーバンの勝利以降、まるで憑き物が落ちたかのように早田牧場の馬は走り始めた。93年にはビワハヤヒデがダービーを惜敗したものの、秋には菊花賞を圧勝。そして同年の2歳牡馬チャンピオンとなったハヤヒデの弟ナリタブライアンは、94年の皐月賞を圧勝すると、圧倒的な1番人気を背負ってダービーに出走する。

1994年5月29日。府中の長い直線、その大外、ナリタブライアン・・
駆け抜けた黒鹿毛の馬は別次元の強さを誇示して日本ダービー馬となった。

ナリタブライアンの父*ブライアンズタイムだけでなく、兄弟の母*パシフィカスもまた、カナダで学びNorthen Dancerの血に執心した彼自身が、イギリスで見出してきた。憑き物云々と表現したら光一郎は心外だったろう、この瞬間まで費やした16年の日々刻々の賜物なのだ、と。

大歓声が渦巻く東京競馬場でも泣かなかった光一郎は、しかし苦しい時代を支えてくれた人々との祝勝会では涙を見せた。それは飄々とした”錬金術師”の、隠された労苦の道のりを物語っていた。

ビワハヤヒデは古馬になってから天皇賞(春)や宝塚記念を勝ち、ブライアンはクラシックを総舐めの後に有馬も制する。JCを勝ったマーベラスクラウンは我が国に於ける最初のミスプロ父系G1ホースだった。

生産者ランク(中央・地方合計)を90年に30位、91年に13位、92年に14位と上げた早田牧場は、絶頂期を迎えていた。93年に3位へと躍進、そしてブライアンが3冠を獲り、ビワハヤヒデやマーベラスクラウンも暴れた94年には20億6700万以上の賞金を獲得して生産者ランクで2位となる。まさに”破竹”という形容が似合う勢い。

ほんの8年前までは重賞馬すら出せずにもがいていた姿は、そこにはなかった。

すでに200頭以上と早田牧場の約5倍の生産規模を誇り、57億円余を獲得して独走するガリバー・社台ファームとはまだまだ大きな差があった。しかし王国を創り上げた吉田善哉が93年に逝去して過渡期に在った社台の牙城に、「風雲児」早田光一郎なら迫れるのではないか・・そんな雰囲気が漂い始めていたのである。

この他にも阪神JFでエアグルーヴを破り2歳女王の座に就いたビワハイジ、有馬記念をアップセットしたシルクジャスティスなど次々にG1ホースが早田牧場から巣立っていった。

宝塚記念を勝ったマーベラスサンデーの喜びはひとしおだったに違いない。同馬の母モミジダンサーは、光一郎にチャンスを与えたかの*モミジと*ヴァイスリーガルとの間に生まれた牝馬だったからだ。ただし父*サンデーサイレンスに対しては当初、低い評価しか与えていなかったそうだが。

ところで早田牧場が90年代に生産した活躍馬たちは、*ブライアンズタイム産駒(NブライアンやSジャスティスの他、エムアイブランやシルクプリマドンナ等)および、外国産馬/持ち込み馬(ハヤヒデ、ハイジの他、*エルジェネシスや*ワイルドブラスター、*タヤスブルーム等)が多数を占めており、それ以外となるとパルブライト、シルクグレイッシュ、マーベラスサンデーなど数頭が挙がるのみ。

オーナーブリーダーやそれに類する牧場の生産サイクルの過程で必ずしも珍しくはない様態だが、その単層的な構造が、後の滑落を加速させる一要因として作用したのも確かであろう。

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雪を眺めて想いを馳せる

ナリタブライアンしかり*エルコンドルパサーしかり、共同通信杯の週はどうも降雪の景色に縁があるようだ。今週末も無事に開催できればよいのだが。

さて週中の国内外競馬ニュースをつらつら眺めている中から、海外での日本関連モノをいくつか。

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一筋のヒカリ

京都の牝馬限定新馬戦を逃げ切ったヒカリノーブル。へぇアドコジ産駒かーという以上に目についたのは、その母父*ヒカリバオーだった。

*ヒカリバオーは94年産、Easy Goerのマル外、6戦1勝という凡庸な成績にもかかわらず種牡馬入したという知らせを当時聞いた覚えがかすかにある。産駒は4頭しか残せなかったが、ヒカリブラッシアはJRAで3勝。またヒカリトリアネーは川崎の新馬戦を圧勝し、東京2歳優駿牝馬でも掲示板に乗って(5着)いて、そのトリアネーがノーブルの母である。

なぜ*ヒカリバオーを種牡馬入りさせたか当時は考えなかったが、見直してみたら同馬はSalt Lakeの半弟だったわけで、ああそういうわけねと。

冠名「ヒカリ」のオーナーである當山隆則氏は、パチンコの玉をはじめとした遊戯備品メーカーである㈱光新星の代表取締役社長。これまでG1で名を響かせるような派手な活躍馬はいないが、90年代から馬主としてヒカリジルコニアや*ヒカリサーメットなどを所有している。

以上、一口メモ。

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収穫を待ちながら

サクセスブロッケン引退が報じられたのと同時に、ファイングレインの引退種牡馬入りという知らせも伝わってきた。具体的な状況はまだ審らかにはなってはいないものの、フランスに渡るということらしい。

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