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ウイナーズサークルの光景

競馬が社会の中で占める立ち位置というのはそれぞれの国や時代によって違うものであるから、欧米のスタイルにただ倣うばかりでよしとされるものでもない。

とはいえ本邦でも馬主はよりリスペクトされるべきでは、という見解は以前から持っているし、意見を同一にするクラスタも少なからずいるようだ。

社台グループの会報「Thoroughbred」誌8月号の巻頭コラムが一部で話題となった。吉田照哉、勝己、晴哉の3兄弟が連名し、オルフェーヴルの宝塚記念の口取りにおいて、会員よりも厩舎や騎手関係者が幅を効かせていた風景を取り上げてたからだ。

文中では、ファンあっての競馬という前提を示した上で『ウイナーズサークルという空間においては馬はオーナーのもの』であると断じ、マクトゥーム殿下(*ラムタラ)やヘレン・トゥイーディ(Secretariat)の例をひきながら、オーナーが享受すべき至福の瞬間について指摘。オルフェ陣営への個別批判を超えて、自らを含めた競馬関係者として反省と戒めを求める内容となっている。

もちろんクラブ馬の出資会員は「馬主」ではないし、会報が主に一口出資会員に向けたものであるという事情を差し引いたとしても、全体としてはよく言ってくれたな、という感想だ。もちろん社台グループだからこそ公に言えるという力関係があるわけだが、専門誌などでもこの問題について直言したものを、少なくとも私は目にしたことはない。

競走馬は、生産者、育成者、そして厩舎関係者の弛まぬ努力の積み重ねによって競走馬たりうるわけで、また実際のレースでは騎手の導きにより栄誉を得ることになる。同時に一つの栄誉の裏には、数え切れないほどの報われぬ献身がある。それらは出資会員のみならず、少しでも競馬に首を突っ込んだファンであれば、自明として理解していることだろう。

今回の例にならえば、宝塚記念の勝利は「厩舎や騎手の勝利」でもある。それは彼ら自身の固有の「勝利」であり、ファンや馬主が踏み込めるものではありえない。

ただし「オルフェーヴルの勝利」がもたらした栄誉は究極的に馬主に還元されるべきであって、これは未勝利馬だろうと世界的名馬だろうと、本質的に変わりはないだろう。繰り返しになるが、競馬の営みにおいて馬主はもっとリスペクトされるべきと思っている。

吉田ブラザーズのこの重い言葉で、秋のウイナーズサークルの風景がどうなるのかちょっと興味深く眺めてみよう。

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