受け継がれた名前/ミノル譚(3)
<ジャポネズリーの波間>
Minoruを生産したのは、ホール・ウォーカー大佐のTully Studである。
醸造業者でもあった大佐のサラブレッド生産理念やその実績の詳細は、この稿の目的でないため割愛するが、Cherry Lassや*プリンスパラタインなど数多くの名馬を産み、イギリスのクラシックをすべて勝ったという歴史に名を残す生産者だった。
またアストロロジー(西洋占星術)に傾倒していたことでも知られ、“Minoruは生まれた時からダービー馬になると預言していた”という、まことしやかな逸話も残っている。
そのホール・ウォーカー大佐に庭園を作ったというTassa Eidaとは何者か。
日本庭園の作庭師というある種の特別な職業にヒントが隠されているかもしれない。まずは19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパにおける日本庭園について概観し、手がかりを探していくことにした。
日本の庭園がヨーロッパで初めて本格的に展示されたのは、1873年(明治6年)にウイーンで開催された第5回世界博覧会だった。1,300坪に及ぶ日本展示会場には白木の鳥居や神社が建設され、池には金魚が泳いだという。
その後、1878年(明治11年)第7回パリ世界博や、続く1889年(明治22年)の第8回パリ世界博においては植栽の技術が注目を集め、特に盆栽や百合が人気を博したと伝えられている。
こうした博覧展示の一方、19世紀末は開国した日本をヨーロッパから観光や貿易で訪れる者が増えた時期でもある。
彼らは日本で目にした富士山や日光の「赤い橋」(神橋)、独特の植栽など、もの珍しい日本の風景に強い印象を受け、その思い出を母国に伝え始めていた。
上流階級を中心に、青銅鋳物や石灯籠、盆栽といった日本の庭置物を輸入する動きが見られるようになり、そして我が国にとっても、こうした庭園アイテムはこの時代の貴重な輸出品として捉えられていたようだ。
このような未知なる国へのエキゾチシズムを背景に、好事家によって日本のイメージを表現しようとする庭がヨーロッパ各地にも散発的に作られ始めた。しかし実際には富士山などのミニチュアや輸入した庭置物を配置しただけであったり、中国建築が混在していたり、つまるところ、思想や哲学を持ってデザインされた庭は皆無に等しかったのである。
ヨーロッパにおける1900年前後のこうした日本庭園の展開を、都市景観/都市構造研究者で庭園文化にも造詣が深いオランダ人のWybe Kuitert博士は、軽佻浮薄で表層的なものであったと述べ、「それはジャポニズム(日本主義)のレベルには至らず、ジャポネズリー(日本的趣味)に過ぎなかった」と指摘している。
一見してMinoruとは関係のない話のようであるが、実はこの世紀をまたぐジャポネズリーの波間に、謎の庭師Tassa Eidaの背中が見え隠れしてくるのである。
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