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受け継がれた名前/ミノル譚(5)

<謎の骨董商>

イダ・サブロウとは何者か。

そのヒントは、Kuitert博士が参照元の一つとしても挙げていた資料の中に潜んでいた。

都市計画家で、緑地や庭園の研究を専門とした佐藤昌(さとうあきら)氏は1986年、「造園雑誌」という専門誌にある研究を発表した。その「外国における日本庭園―初期の造園―」は、明治期以降のアメリカやヨーロッパにおける日本庭園の展開を丁寧に洗い出し、その歴史背景や文化的価値を論考した労作だ。

佐藤氏は、ホール・ウォーカー大佐がMinoruを生産したTully Stud内の庭園も章を割いて取り上げて庭のデザインなども解説を加えており、その中でTassa Eidaとその息子ミノルが建造したものと明記している。

さらに文中において、Tassa Eidaは日本語表記で「飯田三郎」なる人物だと指摘し、これは諸事を検証した結果であろう、「略略間違いない」との結論に達しているのである。

Kuitert博士はこの部分を引用した際、飯田=IidaをIdaと誤ったものと推測される。

そして佐藤氏は、日英博覧会で建設された日本庭園の章において、この飯田三郎の来歴に関する非常に面白い資料に触れている。

庭園の設計がイギリス側にも伝えられた後、在英日本大使館職員が外務省の博覧会事務官長に宛てた1908年の書簡がそれだ。該当部分を要約すると、

「……約30年前に当地に渡り、骨董盆栽商を営んでいたものの、事業の失敗と病気で現在は貧困に没している飯田三郎という者がいる」

「彼は現地の作業員を指揮統括し、イギリス人やアイルランド人の依頼で庭園や家屋を建築した経験もある……」

として、英語に堪能で作庭の経験もある飯田三郎を、これから始まる日英博シェパード・ブッシュの庭園建築に携われるよう、事務局に推挙しているのである。

この書簡はもともと、イギリス側責任者であり、博覧会のいわば仕掛け人だったキラルフィ氏が、より派手な設計を望んでいるとの意向を本省に伝えるのが本旨だった。

ここでどのような政治的判断があったのか、事務官長は書簡を建築終了まで手元に寝かせたままだったという。したがってこの推薦に対する政府からの返答はなく、飯田三郎の名が博覧会の準備に尽力した者としてオフィシャルに残されることもなかった。

とはいえ公文書にその名が登場する以上、Tully Studで日本庭園を作ったTassa Eida=飯田三郎がロンドンに実在し、外交官たちにも名を知られていた存在だったことは確かだろう。

そして国家事業でもあった日英博覧会の庭園建築においても、何らかの役割を果たした人物と考えられるのである。

蛇足だが、日英博で作られた庭園のうち「平和園」の一部は、現在もなお「ジャパニーズガーデン」の看板と共にロンドンのハマースミスパークに残っていることを、目白大学の大出准教授が現地調査で確認している。残念ながら適切な管理はなされておらず、池は草に覆われているそうだ。

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