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受け継がれた名前/ミノル譚(8)

<Minoru Park>

さて、話を1900年初頭のTully Studと飯田親子に戻そう。

1890年代にピカデリーで商売を営んでいた飯田親子が、どのような経緯で名生産者ホール・ウォーカー大佐に招かれたのかは定かでない。キルディアに定住していたのか、それともロンドンと行き来するような生活だったのか、正確なところもわからない。

いずれにせよ、来日した経験があり、日本の植栽にも興味を持っていたという大佐は、単に異国の雰囲気を醸そうとしたのではなく、自身の人生観を表現する庭園を牧場内に作ろうとしたのだった。

すなわち『Life of Man(人間の一生)』と名付けられたこの庭園は、『虚空の門』『誕生の洞窟』から始まり、その後『未知のトンネル』や『学問の丘』といった青年期の象徴を経て、『人生の岐路』に達する。

ここで3つの道に別れ、飛び石を渡るコースを選ぶと『喜びと驚きの島』で未来の伴侶と出会うが、『婚約橋』は壊れているという皮肉が待つ。

その後は『結婚橋』『知識の井戸』『野心の丘』などが現れ、壮年期に至ると『平和と満足の島』で人生を振り返り、終盤には『老年の椅子』で休み、『永遠の門』をくぐって巡礼を終える、といった趣向になっている。

大佐の占星術的な思想が、そこには投影されていたのだろうか。

Tully Studの地域はもともと湿地帯で、大佐が牧場開設のために開拓した土地だった。

そこでの庭園造りにあたり、飯田三郎とミノルの親子は松の木などを移植し、石灯籠は日本から輸入した。石材の多くは現地キルディア州のSillot Hillなどから搬入したが、40人あまりの人夫や馬を用いても往復に数日を要することもあったという。

人生の旅路をトレースした庭園はダービー翌年の1910年に完成し、飯田親子は「1912年に牧場を去った(アイリッシュ・ナショナルスタッドHP)」。その後、父の飯田三郎は病死し、息子ミノルは行方知れずとなったとされている。

他方、ホール・ウォーカー大佐は1917年に所有馬および牧場を含む馬産資源をすべてイギリス政府に寄贈し、ウェイヴァトリー卿となった。死去したのは1933年だった。

こうしてダービー馬Minoruと庭師の息子ミノルは、いずれも歴史の闇に姿を消した。

ところでその名誉ある名前は、遥か大西洋を超えた地で、全く別の形で生き続けることになる。

カナダのリッチモンドにあるMinoru Parkがそれだ。

飯田親子がアイルランドで庭園を作っていたころ、カナダのブリティッシュコロンビア州では、S.SpringerやC.M.Merpoleら地元の実業家たちの間で新しい競馬場の建設計画が持ち上がっていた。競馬場に適した場所を探した結果、彼らはリッチモンドのルル島に交通アクセスの良い平坦な土地を見つけ、これを購入してコースや付属施設の整備を進めていく。

1909年夏に開場したこの競馬場は、平坦なトラックコースとスタンド、小ぢんまりとしたクラブハウスからなっていた。そして当年のエプソムダービー馬にあやかり、Minoru Parkと名付けられたのだった。

Minoru Parkはやがて勃発した第一次世界大戦の影響で1914年に閉場され、滑走路などとして利用されたようだ。そして1921年に競馬が再開された際にはBrighouse Parkと名を変え、そのBrighouse競馬場も街の再開発に伴って1962年に閉鎖されてしまう。

競馬場跡は公共施設群や公園に整備されたのだが、その公園は再びMinoru Parkと名付けられ、現在も園内でウサギや鴨が遊ぶリッチモンド市民の憩いの場となっているのである。

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