受け継がれた名前/ミノル譚(9)
<開かれた扉>
飯田親子が去ったのち放置されていたTully Studの日本庭園は、第二次世界大戦後の1946年、国立植物園から招かれたPatrick Doyle氏によって再興された。現在はIrene McMahon氏によって管理や手入れがなされ、牧場を訪れる多くの観光客の目を楽しませている。
一方、庭園を完成させた後に牧場を去ったという庭師の息子ミノルの行方は杳として知れないままであったが、謎の扉はそれから70年近い月日が経った1980年代のある日、突然開かれたのだった。
その日、キルディアのアイリッシュ・ナショナルスタッドに、一人の男性が突然訪ねてきた。男が切り出した話を聞いた牧場スタッフは驚いたに違いない。
なぜなら、彼は自らを「Tassa Eidaの末裔であるBrian Eida」と名乗ったのからだ。
日本語は話せず、東洋人の風貌のかけらもない中年のイギリス人である。
独白は真実なのか?何かのいたずらか、物好きの冷やかしではないのか?
しかしBrianの話は、具体性を帯びていた。
「Tassa Eidaは作庭師ではなく、古物商でした。Tassaは1911年に病死しました」
「彼の息子のミノルはロンドンに残り、エンジニアとして働き、英国人女性と結婚したのです」
「ミノルには4人の息子と3人の娘がいます」
「第二次世界大戦が始まると、ミノルは敵国である日本との関わりを隠そうと、自らの過去を封印し、Johnを名乗ったのです」
「ミノルの父(Tassa)の本名は、Saburoといいます。彼は1893年、31歳のときに日本からイギリスにやってきたそうです」
自身もエンジニアであるというBrianから語られた「Tully以前」の内容は、これまで記してきたヨーロッパの日本庭園史に垣間見える飯田三郎の姿、あるいは南方熊楠と親交のあった骨董店主・飯田三郎の来歴と、ほぼ一致することに気づいてもらえるだろう。
一聞しただけではにわかに信じがたい「自称・末裔」の話も、こうした諸点を踏まえてみれば、欠けていたパズルの空白をピタリと埋めるピースだった。
庭師の息子ミノルは、そしてミノルの子孫たちは、イギリスで生きていた。
ミノルの孫Brianがどのような心境で名乗りでたのかは知れないが、こうして謎の大きく扉が開かれ、闇に光が差し込んだのである。
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