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プチャーチンの黄金の馬(上)

いまだ猛暑の名残りを温い空気に残しながらも、頬を撫でる風には季節の移り変わりを感じる初秋の宵だった。新宿駅のBERGはこの日も混み合っていて、一人分空いたカウンターの隙間に身を潜り込ませると、私はグラスのビールで喉を潤した。

とその時、隣に立っている男性が競馬専門紙を眺めていることに気づいた。金曜日の19時、珍しい光景ではない。しかし奇妙なことに紙面は週末の出馬(でんま)表ではなく、ちょうど4年前のスプリンターズステークスのそれだったのである。私は妙に気になって横顔に目をやった。ベレー帽を被った老人だった。

そんな視線を感じたのだろう、老人は顔を上げてこちらを見ると、彫りの深い顔に親しげな表情を浮かべながら、競馬が好きなのかと尋ねてきた。私は待ち合わせの後輩が来るまでの時間を“ベレー爺”の話に付き合うことにして、ええまあ、と頷いた。

嬉しそうに「この馬が好きだったんだ」と人差し指で示したのは7枠14番スリープレスナイト。このレースの勝ち馬である。

「スリープレスナイト、この馬名の意味、知ってる?」

「たった四杯で夜も眠れず、ですよね」

お、やるねという表情でベレー爺は笑った。幕末の浦賀沖に黒船が来航した際、日本の混乱ぶりを詠ったとされる<太平の眠りを醒ます上喜撰(蒸気船)/たった四杯で夜も眠れず>という狂歌。これをモチーフとしてクロフネの仔に“眠れぬ夜”・・・これは私が最も好きな馬名の一つなのだ。私たちはひとしきり彼女のケレン味のない快速ぶりを懐かしみ、そしてその死を悼んだ。

ザワークラウトをつまみながら爺はやおら話を変えた。

「そういや黒船のペリーって、競馬の歴史にも登場するんだよ」

私は頷いて先を促す。

フリゲート艦サスケハナを旗艦として浦賀に乗り込んだマシュー・ペリー代将は海軍一筋に黎明期のアメリカで活躍した軍人である。ペリーの娘であるキャロライン1849年、オーガスト・ベルモントという銀行家と結婚した。ロトシルト(ロスチャイルド)家のいわば在米銀行代理人から政治家へと転身した彼はまた、同時にサラブレッドのオーナーブリーダーとしても知られている。

キャロラインとオーガスト・ベルモントの長男であるオーガスト・ベルモント2世は、後のボストン財閥の祖となった財界の大物であるが、アメリカジョッキークラブの創設に尽力し会長を30年間務めるなど、競馬の発展にも大きく貢献している。2世が父から引き継いだナースリースタッドからは、Fair PlayやWorth、Man o’ Warといった歴史的な名馬が世に出ている。

そしてペリーの娘婿・初代ベルモントの名は、アメリカ三冠最終戦のベルモントSと、後年建設されたニューヨーク州のベルモントパーク競馬場に冠され、現在に残っているというわけだ。

店内の喧騒や熱気とは対称的に、目の前の老人の語り口は穏やかで訥々としている。しかしそこには聞き手を引き込む不思議な引力があった。話はペリーの艦隊に海を渡らせた当時のアメリカの社会的背景へと継がれていった。

「メキシコとの戦争に勝ったアメリカはカリフォルニアを手に入れて、ついに太平洋にまで領土が到達した。で、1848年にカリフォルニアで金鉱が発掘されて、一攫千金を狙った探鉱者が殺到する。俗にいうゴールドラッシュ。」

「…それはつまり、フォーティーナイナーですね」

「そうそう、探鉱者ことミスタープロスペクターと金堀り屋からフォーティナイナーが生まれて、さらにコロナドズクエストが“宝探し”って続くんだよな。あれ、何の話だったか?…太平洋だ。太平洋に航路の中継点を確保する必要があったんだろうね。これが黒船の日本来航につながった。当時は捕鯨も盛んだったから」

「あ、ホエールキャプチャ」

「そうだな」と笑う。

時間にしてほんの20分くらいだったろうか、しかしそれは濃密な時間だった。遅れていた後輩がようやく顔を見せたのを機に、ベレー爺はグラスにわずか残っていた黒い液体を飲み干した。

「上喜撰ならぬ上機嫌、ビール四杯でよく眠れそうだ」

「それじゃ。楽しかったです」

「ああ。そういえばあんた、“プチャーチンの黄金の馬”を知ってる?いや、さすがに知らないだろうなあ」

プチャーチン?

黄金の馬?

「え?・・知らないです、何ですか、それ」

右手を軽く上げただけで私の問いかけには応えず、ベレー爺は人を掻き分けるようにしてむせ返る店を出ると、新宿の雑踏の中に姿を消した

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