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競馬を紡ぐ

キズナの勝利でダービーの馬券は外したのにもかかわらず、なぜか消化不良感が残らない不思議な気持ちにレース後は浸っていた。その場ではうまく言語化できなかったそれは、帰宅してから

<サンデーサイレンスと武豊の絆を感じる競馬の幸せ>を読んで、そうか、とまさに腑に落ちたのだが。

自分がコミットした後の競馬の物語性を俯瞰してみると、社会全体が、共通した感情とそれに依拠する「物語」を競走馬に投影できた時代は、90年代前半までだった。

その後*サンデーサイレンスという巨星が君臨した90年代中盤からしばらくは、大きな物語という幻想を共有できなくとも、まだそれが「どこかにある」と信じていた時代だったと思う。

ここでの道具立ては、まさしく豊&サンデー(&社台グループ)という有無を言わさない存在だった。彼らが持っていたある種の絶対性は、勝者と敗者、マジョリティとマイノリティ、武豊サンデーとそれ以外・・・そういった対立構造を生成し、この時期の仮想物語を物語たらしめていた。別の言い方をすれば、”サンデー側”も”アンチサンデー側”も、同じ景色を違う方向から眺めていたのだろう。

ディープインパクトを一つの到達点として、豊&サンデーという基軸が次第に相対化され始めると、もはやファンに通底する物語や幻想はその存在すら揺らいでいく。いわゆるデータベース消費という概念がこれにあたるのか微妙ではあるが、少なくとも競馬を巡る物語は微分され、ファン全体ではなく個へと向かっているのは間違いない。

そんな中で、ディープインパクトの仔に乗った武豊が、全盛時を彷彿とさせる鮮やかな差しきりで幕を下ろした今年のダービー。先のエントリでゆたさんが言及する「幸せ」とは、90年代中盤以降、メルトダウンしつつある物語が少々でき過ぎた集大成として像を結んだとことによって、「自分と競馬の肯定感」を得たということなのだと思う。だとしたら、その感覚は個人的によくわかるものだった。

さて。結局のところ、昔のように社会がひとつの世界観を競馬に投影するなんて時代には戻れないのは間違いない。武豊やサンデーのような、それ自体が鏡となるような強烈な存在の登場も期待薄だろう。

ならば、これからの日本競馬の座標軸はどこにあるのか。

正直に言って、わからない。
わからないが自分はせめて、細分化した物語がさらに細切れになってただの記号の集積にならないように、競馬を「紡(つむ)いでいくこと」を、細々ではあっても続けたいと思っている。

(5/28誤字修正し加筆)

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