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静かな祈り(前)

「とまーれー」

係員の掛け声がかかり、中山競馬場のパドックを周回していた出走馬たちにジョッキーが駆け寄る。誘導馬を先頭に隊列を組んだ人馬が、多くの人々の願いを背負って地下道の中に姿を消してゆくのは、未勝利だろうと有馬記念だろうと変わらない。

男はどんなときも、この光景を静かに見守り続けている。

パドック脇、馬頭観音の横に銅像となって鎮座する中村勝五郎だ。

中村家は千葉県東葛飾群中山町(現在の市川市)に名を知られた素封家で、日本競馬の黎明期から様々な局面に登場し、そして大きな役割を果たしてきた。

初代の中村勝五郎は陸軍御用達の馬糧商を営んでいたが、大正時代に手がけた味噌醸造業が成功し財を成した。中山町鬼越という地に住む勝五郎は「オニカツ」とも呼ばれ、相撲でも名を轟かせる巨躯だったそうだ。そして明治40年に発足した総武競馬会ではすでに馬主として競走馬を所有し、松戸の競馬場で走らせていたという。

その松戸競馬場が陸軍省によって接収され、千葉県中山町へと移転してきたのが大正9年のこと。これが中山競馬場のいわば前身だ。そして馬券の発売が禁止されていた暗黒時代を乗り越え、大正12年に旧競馬法が成立して本邦の競馬はようやく軌道上を走り始めた。ところが当の中山競馬倶楽部では競馬開催の利権をめぐる内紛・派閥争いが勃発しており、肝心要の競馬が開催できないという泥沼に陥っていたのである。

さらに、狭隘な施設の建て替えを目的に隣接地へと再移転が計画されたのだが、上記の内紛に加えて地主とのトラブルが表面化し、国からの競馬運営許可そのものが危ぶまれるまで事態は悪化した。

最終的には昭和3年、突貫工事で建設された新たな馬場とスタンドで何とか競馬が開催されるに至り、現在の場所に中山競馬場が誕生するのである。

このとき肥田金一郎氏らとともに、揉めに揉めた利権騒動の沈静化に尽力したひとりが、当時中山町長でもあった2代目中村勝五郎だった。「地代の滞納があれば中村家が立て替える」とまで覚悟を背負い、反対派の地主の説得にあたったという。

パドック脇の銅像は、中山競馬場の父とも言うべき2代目勝五郎を讃えたものだ。

第二次世界大戦の敗戦後、壊滅的な打撃を受けた状況から競馬が復興するにあたっては、多くの先達の努力と奮闘があった。2代目勝五郎が進駐軍の将校に競馬開催の意義を熱く訴えた出来事もまた、昭和21年秋の競馬再開に貢献したであろう。

戦前の帝室御賞典が平和賞として再開されたのが昭和22年春、そして半年後の秋に天皇賞と名が改められた。戦後初の名誉ある天皇盾を拝した*ダイオライト産駒のトヨウメは、勝五郎の愛馬だった。

中村家が営んだ扶桑牧場からは、牧場の名そのままのフソウが出ている。ボストニアンが勝った昭和28年のダービーで5着し、翌年の安田賞(後の安田記念)を勝って種牡馬となった馬だ。ちなみにフソウとは戦艦扶桑から取られた名である。

またハクセツ・ジョセツ姉妹は、1960年台から70年代を彩った個性派として有名だ。65年生まれのハクセツは父のフソウと母のセツシュウが共に扶桑牧場の生産馬という中村家のハウスブレッド。両親共に、室蘭のユートピア牧場がオーストラリアから輸入した名繁殖*エミールの牝系同士の配合だった。

幼少のハクセツは華奢で見栄えのしない芦毛の馬体に買い手がつかなかった。やむなく三代目中村勝五郎が南関東で走らせたところ、ここで望外の活躍をみせたため、中央競馬の高橋英夫厩舎に移籍する。高橋師が騎手時代に父と母に騎乗していたのが縁であった。

そしてハクセツは、転厩4戦目に牝馬東京タイムス杯を最後方から見事な追い込みで勝利し、この時騎乗していたデビュー間もない岡部幸雄騎手に初重賞制覇をプレゼントした。その後も金杯や七夕賞などを勝っている。

戦績以上に注目されたのはその容貌だった。小柄で愛くるしく「楚々とした純日本風美人(高橋師)」に育ったハクセツは“白い美少女”という異名を持ち、かのスピードシンボリが恋をしていたという逸話まで残されている。

ハクセツの半妹ジョセツ(父はシカンブル系の*シーフユリユー)もまた、七夕賞や目黒記念など重賞を5勝した芦毛の名牝で、牡馬勝りの力強い末脚が武器だった。妹の方は“白い恋人”とも呼ばれた。

姉妹の芦毛は、母の父*グレーロードが持つThe Tetrarchに由来するものだ。個性的なルックスとレース振りは、現在なら熱心なファンが追いかける人気馬になるのだろう。残念ながらハクセツ、ジョセツともに繁殖牝馬としては目立った産駒を残すことはできず、現在ではその牝系はほぼ途絶えている。

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