朝日杯FSに想うこと
今年度から、朝日杯フューチュリティステークスの開催場所が阪神競馬場へと変更となった。
そもそも朝日杯は1949年に創設されたレースで、当初は1100mで始まった。1959年から1200m、1962年以降は1600mに固定され、1984年のグレード制導入と同時にG1となり、91年以降は牡馬のチャンピオン決定戦となって現在に至っている。
今では新聞社やテレビ局の社杯となっているレースは珍しくもないが、競馬が「非健全な娯楽、ギャンブル」というブラックなイメージが色濃かった時代に、マスコミが協賛するというのは今では考えられないほどハードルが高かっただろう。
そんな中で、朝日新聞社が初めてマスコミとしてその名を競走に冠するにあたっては、”中山競馬場の父”である中村勝五郎の孫、三代目中村勝五郎の助力があった。
勝五郎は競馬のイメージアップの一助になればと考え、旧知の朝日新聞の編集局長(後に社長となる信夫韓一郎)に、ダービーに朝日新聞社賞を出すように提案したという。この案は様々な思惑もあって実現しなかったが、替わりに新たに3歳馬(現在の2歳馬)の高額賞金レースを創設するというプランが浮上し、これが1949年の朝日杯3歳S誕生へと繋がった。勝五郎は中村家の土蔵で埃をかぶっていた戦前のアラブ競走の優勝杯に彫刻を施してもらい、これが長年にわたって朝日杯3歳Sの勝利馬主が持ちまわるカップとして使用されている。
その後、読売新聞(読売カップ)や毎日新聞(毎日王冠)、京都新聞杯や日経賞などが次々と生まれていった。そしてダービーの中継を開始するNHKもこれに名乗りをあげ、トライアルレースを創設してNHKの名を付けるという案が出された。これが後のNHK杯、現在のNHKマイルカップである。
朝日杯は長年にわたって若駒の頂点を決めるレースであり続けた。自分が見始めてからはアイネスフウジン、ナリタブライアン、フジキセキ、グラスワンダーなどの鮮やかな勝ちっぷりが後の躍進を予感させ、印象に強く残っている。今般の番組改正ではホープフルSの重賞昇格などの変更もあり、2歳路線が今後どう変化していくのかは趨勢を見守るしかないが。
ただ、中村家がその誕生に関与して生まれた朝日杯が、中山競馬場から姿を消してしまうという点だけ言えば、ちょっとさみしいような気もする。地名と同じようにレース名も、歴史のバックグラウンドが尊重されるとよいな、と個人的には思う。
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