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ピエレットはそっと微笑んだ(4)

さて、オートポリスアートミュージアムから消えた“ピエレットの婚礼”はどこへ行ったのか。鶴巻氏が“ピエレットの婚礼”に巨額の資金を投じたころにはすでに資金繰りに余裕はなくなっており、ノンバンクのアイチ社長・森下安道が不足分を賄ったのは知られた話だ。

その後、大分のオートポリス開発が暗礁に乗り上げて債権者の建築会社ハザマに社長を追われ、ミュージアム開館の数ヶ月前にはすでに“ピエレットの婚礼”も融資担保として消費者金融会社のレイクに押さえられていたという。レイクの会長・浜田武雄もまた、バブル期に巨額の資金を投じた美術愛好家であり、浜田の厚意で3日間だけオートポリスで展示されたのちに、名画は東京のトランクルームへと運ばれた。

しかし、そのレイクもまた経営に行き詰まり、98年にはアメリカ資本のGEキャピタルに金融部門を売却することになる。レイクが担保として保有していた500点もの美術品は不良債権として「エル」という会社に引き継がれ、後にオークション会社クリスティーズに売却委託されたのだが、なぜか“ピエレットの婚礼”は一度も表舞台に登場してこないまま今日に至っている。

『消えた名画を探して(時事通信社/著・糸井恵)』によれば、90年台後半、都内のある場所で“ピエレットの婚礼”を観る機会に恵まれた画商は「もともとあまりコンディションのよくない絵だったが、なんだかかわいそうだった」と話したという。それからすでに20年近い年月が過ぎ去った。未だどこかの倉庫で静かに出番を待っているのか、すでに新たな持ち主の手に渡り日本から去ってしまったのか。真相は謎のままだ。

こうして“ピエレットの婚礼”が哀しき運命の部屋に幽閉されているころ、鶴巻氏のもう一つの象徴であるA.P.Indyはアメリカのレーンズエンドファームで種牡馬となり、稀有なポテンシャルを示してメールラインの勢力図を塗り替え始めていた。

初年度産駒からPulpit(ブルーグラスS)やTomisue’s Delight(ラフィアンH)などが重賞を勝ち、その後もGolden Missile(ピムリコSH)やAptitude(ハリウッドGC他)、Mineshaft(ウッドワードS他)らG1馬が次々と登場、2003年と2006年にはリーディングサイアーとなっている。日本でも99年に*シンボリインディがNHKマイルカップを制した。

Pulpitは種牡馬としても成功し、Sky Mesa(ホープフルS)や*パイロ(フォアゴーS・輸入種牡馬)、Tapit(ウッドメモリアルS)といった活躍馬を輩出した。

さらにそのTapitは*スターダムバウンド、Hansen、TonalistなどG1ホースを量産。2014年に北米の年間最多収得賞金の記録を塗り替えてリーディングに輝き、種付け料が30万ドルにまで達したのは記憶に新しい。A.P.Indyを起点とする父系は現在、北米馬産界の押しも押されぬメインストリームとなっている。

Tapit産駒の*ラニと、Lucky Pulpit産駒のカリフォルニアクロームが砂漠の中のメイダン競馬場であげた勝利を、ピエレットは地球上のどこで観ていただろうか。そしてその瞬間、憂いの表情は誰にも気付かれることなく、そっと微笑みに変わっただろうか。

バブル景気、巨額の投機マネー、ひとりの男の夢と挫折、美術界と馬産界の欲望。さまざまな渦に翻弄されてきた一幅の名画と一頭の名馬の物語は、まだこれからも続いていく。

(終)

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