タングルウッド物語
3歳牝馬にしてキングジョージと凱旋門賞を圧勝した名牝、Enable。その父NathanielもキングジョージやエクリプスSを制した名馬であるが、Nathanielという馬名の由来は、実質的な馬主であるロスチャイルド夫人の一人息子だったそうだ。
そもそも「ナサニエル」というのはユダヤ系の男性名であり、政治家や軍人はじめ著名人でこの名を持つ者も少なくない。、『二度語られた物語』『緋文字』といった作品を世に残し、19世紀アメリカを代表する作家とされるナサニエル・ホーソーンも、そのひとりだ。
ナサニエル・ホーソーンは1850年、マサチューセッツ州レノックスの郊外にコテージを借り、子供向けにギリシャ神話をアレンジした作品『タングルウッド物語』を書き下ろした。それによってコテージ周辺の地域はタングルウッドと呼ばれるようになり、その後1936年には地主が一帯の土地をボストン交響楽団に寄付した。交響楽団はこれを機に夏の活動拠点をこの地に移すことになり、これが現在も夏の風物詩として有名な「タングルウッド音楽祭」の発祥になったという経緯がある。
1986年の音楽祭でボストン交響楽団と共演したのは、若干14歳にして大抜擢された日本人バイオリニスト、五嶋みどりだった。堂々とした演奏を見せていた五嶋だが、演目の後半になって思いもよらぬアクシデントが起こる。バイオリンの弦の中で最も高い音を担うE線が、2度も切れてしまったのだ。
大観衆の前でパニックになってもおかしくないその状況で、五嶋は冷静だった。驚く指揮者とアイコンタクトを取るや、一度目はコンサートマスターと、二度目は副コンサートマスターと素早くバイオリンを交換した。そして普段は使用すらしていない(大人用の)フルサイズのヴァイオリンを見事に操って、最後まで弾き通してみせたのだ。やがてスリリングな演奏が終わると、巻き上がる拍手の中で指揮者は思わず五嶋を抱き寄せ、感極まって目尻を拭った。
これが「タングルウッドの奇跡」と当地のメディアに賞賛され、京都の新馬戦を見事に逃げ切ったSiyouni産駒*タングルウッドの名の由来となった出来事でもある。
*タングルウッドの母系はあまり本邦と馴染みがないが、長距離のロイヤルオーク賞勝ち馬がいたり、2歳重賞の活躍馬がいたりと、フランスを中心になかなかの活力をみせている。母系に入った*メンデス譲りの芦毛も相まって、芝中距離で渋い活躍を期待したくなる存在といえようか。
ちなみにタングルウッドの奇跡で五嶋みどりを涙で抱擁したのは、世界的な指揮者として名を知られたレナード・バーンスタイン。彼はこの4年後に肺がんでこの世を去るのだが、バーンスタインの名はStorm Cat産駒のBernsteinに授けられ、アメリカとアルゼンチンで幾多の活躍馬を出す名種牡馬の地位を確立した。
Bernsteinの持ち込み馬*ゴスホークケンは本邦で朝日杯FSを勝ち、父としてマルターズアポジーを産んだ。そのアポジー(Apogee)は「頂点、最高点」を意味する言葉で、指揮者バーンスタインがこの世を去った1990年に生まれた牝馬にずばりApogeeという名の馬がいる。Apogeeはフランスでロワイモヨン賞を勝って繁殖入りした。
そしてApogeeの孫娘が後年、「頂点」を極めることになった。3歳牝馬にしてキングジョージと凱旋門賞を圧勝した名牝、Enableである。
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