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星明かりは見えずとも(2)

みちのく大賞典といえば、これまでスイフトセイダイ、トウケイニセイ、グレートホープ、メイセイオペラなど岩手が誇る名馬たちが優勝馬に名を刻んだ、盛岡競馬場の名物レースである。いつか現地で観戦してみたいレースのひとつだ、と私は答えた。

「あのレース、正式には”一條記念みちのく大賞典”ていうんですよ。一條っていうのは一條友吉という人の名前なんですけどね」

一條友吉は一條牧夫の息子として、明治17年に生まれた。牧夫は現在の東大農学部を第一期生として卒業し、海外からアングロノルマン種とハクニー種を導入するなど岩手の馬産発展に大きな貢献をした人物である。

その息子の友吉も若かりし頃に海外に飛び出したホースマンだった。アメリカのロングアイランド競馬場で厩務員をした後にヨーロッパに転地し、エプソム競馬場を歴訪するなど研鑽を積んで明治の終わりに帰国している。

地元岩手に戻ってからは、競走馬の育成牧場を開く一方、昭和8年に移転・完成した旧盛岡競馬場の設計にも携わった。

太平洋戦争によって休止されていた岩手競馬の灯火がつながったのにも、友吉の尽力が大きかった。戦後、人脈と語学力を活かして奔走し、進駐軍慰安競馬という名目で競馬開催を再開させたのである。

すなわち、みちのく大賞典の冠である”一條記念”という名称は、日本で現存する中で最も古い歴史を持つひとつである岩手競馬の黎明から戦後に渡り、まさに八面六臂の活躍をした一條友吉の献身を現代に伝える、非常に意義深いレース名というわけなのである。

「その旧盛岡競馬場は、コガネ競馬場って呼ばれてたんですよ。黄金と書いてコガネ。黄金清水という湧き水があったのが由来で」

明治6年に天皇陛下が東北巡幸をされたおり、黄金清水の近くでお召し替えの小休止を取られた。その約30年後、当地を訪れた閑院宮載仁親王のために臨時の競馬が記念開催され、親王は競馬場が件の黄金清水の近くにあることから「黄金競馬場」と命名されたとのだという。

現在「黄金清水」の湧水地は私有地にあり、史跡等としての整備はなされていないようだが、その名は受け継がれている。1996年に移設された現在の盛岡競馬場の愛称オーロパーク。オーロとはラテン語で黄金を意味する。

「そっか、今のオーロパークって名前って・・・そんな歴史があったんだ」
きっと横文字で格好をつけただけだろうと誤解していた私は、ただ感心するばかりだ。

一條が設計した旧盛岡競馬場こと黄金競馬場は左回りのダートコース、3コーナーに高低差8.8mの坂を有するという他に例をみない独特の形態をしていた。本邦では少数派の左回りはアメリカ競馬、自然の地形を活かしたアンジュレーションはイギリス競馬、それぞれの息吹を感じる設計思想と言えよう。

「そうそう、一條友吉はもうひとつ、日本の馬産の歴史で大仕事をしてまして。星を連れて来たんですよね」

クロブチさんはおかわりの注文をするために立ち上がった。

(続く)

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