« 三里塚のマロニエ(2) | トップページ

三里塚のマロニエ(3)

御料牧場の敷地内に建設された御文庫。

成田市の資料によれば、昭和13年頃から、地元では「秘密の防空壕が造られるようだ」との噂が流布していたという。実際にその建設が宮内省から建築会社の 間組(はざまぐみ)に建築が発注されたのが昭和16年、そして完成したのが同年12月8日と記録されている。日本海軍がオワフ島の真珠湾を攻撃し、アメリカとの全面戦争に突入したまさにその日である。

公式には、東宮が戦時中に下総御料牧場に行啓されたという記録は残されていないようだ。しかし平成28年に公開された第9代牧場長・田中二郎氏のアルバムによると、東宮が戦中の昭和19年3月に行啓されていたことが明らかになっている。

詳しい経緯は明らかでないが、御文庫の視察という意味合いも多分にあったと推察されるし、その際にはおそらく、貴賓館ご覧になったことだろう。そしておそらく、御料牧場が誇る*トウルヌソルや*ダイオライトも。

幸いにも防空壕はその本来の役割を果たすことなく終戦を迎え、戦後は御料牧場の一隅にひっそりと残された。

牧場が成田空港建設に際して移転し公園となった後は、出入りも自由な状態で放置されていたため、近所の子どもたちの遊び場にもなったようだ。昭和50年前後には安全面の配慮から入り口が封鎖されてしまい、その存在を知る者も少なくなっていた。

そして時を経た平成20年。地元有志の陳情がきっかけとなり成田市による本格的な調査が行われた結果、貴重な文化財として整備され、現在は一般にも公開されているのである。

御文庫の小さく急な階段を下っていくと、2重の頑丈そうな鉄扉の向こうに、かまぼこ様の形態をした11㎡ほどの主室がある。厚さ70センチにも及ぶコンクリート壁はほとんど劣化もせず当時のままだそうで、現在でも高層ビル建築に用いられるほどの強度と質だそうだ。

主室のひんやりとした、感情を吸い込んでしまうような静謐な空気はきっと、約80年前も今も変わらないのだろう。

当然のことながら、国家の最高機密としてその建設が進められた御料牧場の「御文庫」。ところが三里塚記念公園の関係者によると、御文庫の存在はアメリカ軍にも知られており、日本本土爆撃の際の候補地の一つとして挙げられていた可能性が高いのだという。

歴史のもしも、である。
もしも下総御料牧場が太平洋戦争中に空爆を受けていたら、当時牧場で繋養されていたサラブレッドたちも被害は免れ得なかったろう。

*星旗の娘クレオパトラトマスもその一頭だ。クレオパトラトマスはダービー馬クモハタの半姉で、自身も帝室御賞典を勝った名牝。 引退後は故郷の御料牧場に戻って、戦中戦後を月城という名で繁殖牝馬生活を送っていた。もしもその月城が戦禍をくぐり抜けられなかったら、月城から 数えて5代目のパストラリズムは存在しない。そして星の牝馬の末裔を探していた小林英一オーナーにパストラリズムは見出されるわけもなく、平成の世にゴールドシップというファンに愛された個性的な名馬が産まれることもなかったのである。

一方、*ダイオライトを礼賛して止まなかった名物馬主・加藤雄策は、昭和20年5月の東京大空襲により命を落とした。
その亡骸は、彼の愛馬セントライトが東京優駿を勝った東京競馬場にほど近い都立多磨霊園に、今も眠っている。

(おしまい)

DSC_0637

成田市三里塚記念公園のマロニエ並木

|

« 三里塚のマロニエ(2) | トップページ