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108年後の帰還

長い歴史を刻むイギリス競馬史の中でも、1913年(第134回)の英ダービーは最も衝撃的なレースの一つだろう。

馬群が勝負どころのトッテナム・コーナーに差し掛かかったとき、内ラチ沿いにいたひとりの女性が突如布のような何かを手に持ち、コース内に侵入した。両手を広げ立ちはだかった女性は、後方を追走していた当時の国王ジョージ5世の愛馬Anmerと激しく激突…エプソムの芝生の上に身を打ち据えられたのだった。そして意識がないまま病院に搬送され、4日後に脳挫傷で死亡した。

女性の名はエミリー・デイヴィソン。女性参政権を求めて過激な抗議活動を繰り返す団体の活動家(通称サフラジェット)だった。

レース中のコースに身を挺した不可思議な行動の動機は諸説あり判然としていないが、真相はどうあれ、英ダービーのさなかに観客が出走馬(それも国王の所有馬)と衝突して命を落とすという大事件である。

”サフラジェット・ダービー”として人々の記憶に刻まれたこのレースの勝ち馬Aboyeurは単勝万馬券の伏兵だった。その後は勝利をあげることができず大きな評価をされぬままに引退し、ロシアに種牡馬として売却される。最後はロシア革命の戦火の中で行方不明となってしまったのだから、Aboyeurほど不遇の英ダービー馬は他に類を見ない。

 

1929年に日本に輸入された*セレタは、その不遇のダービー馬Aboyeurの近親で、同じThomas Kennedy Laidlaw氏が生産した牝馬だった。

*セレタは輸入種牡馬*トウルヌソルとの間に第4回阪神優駿牝馬(現在の日本オークスの前身)を勝ったテツバンザイを産み、テツバンザイは英月という名で大東牧場で繁殖牝馬となっている。大東牧場は、室蘭の大実業家だった栗林友二が千葉で営んだ牧場であり、栗林は本邦におけるオーナーブリーダーの先駆けとなった。

クリフジやクリペロなど「クリ」を冠名とした多くの活躍馬を産んだ栗林家は、後にユートピア牧場を買収しローブモンタントやライスシャワーなどの名生産者・馬主としても名を知られるところである。

栗林家の元でテツバンザイはその後大きく牝系を広げ、天皇賞馬クリヒデを経由したポイントメーカーの分岐はマルゼンスキーで有名な橋本牧場、「モガミ」の冠で知られた最上牧場で血のバトンを繋いだ。そしてモガミヒメを購入したのが新冠町の村田牧場である。

村田牧場の村田康彰氏は筆者もやりとりをさせてもらった事があるが、理知と情熱を併せ持ち、非常に血統に造詣の深い生産者として知られている。決して大きくない生産規模の中から、スプリント王者ローレルゲレイロを筆頭としてソリストサンダー(かしわ記念2着)、モズベッロ(日経新春杯)、チャームアスリープ(南関牝馬3冠)などを輩出している。

過日のフォワ賞を制したディープボンドはモガミヒメの孫にあたるゼフィランサスの産駒となる。なお村田牧場がゼフィランサスにキズナを配した配合的戦略については、こちらのインタビュー記事に詳しい。

不遇のダービー馬Aboyeurが出た Laidlaw氏の牝系は現在も各地で枝を残しているが、不思議なことに近年のG1級となると前出のローレルゲレイロやDream Ahead(ジュライC、スプリングC)、香港の短距離王Hot King Prawn(センテナリースプリント)など短距離が活躍の場となっている。

そんな中で、”サフラジェット・ダービー”からちょうど100年後の日本ダービーを勝ったキズナとゼフィランサスの間に産まれたディープボンドが、前哨戦を鮮やかに逃げっ切って欧州2400m路線の表舞台にその名を高らかに掲げたわけだ。

ヨーロッパ外からの遠征馬が父系3代で凱旋門賞に出走するのもおそらく初めてだろうし、伝説の凱旋門賞馬*ダンシングブレーヴとアメリカの名牝*グッバイヘイローの仔が母父に鎮座しているのも味がある。様々な視点で興味深いディープボンドであるが、Aboyeurとその一族の末裔として、あの運命のレースから108年後のパリロンシャンでどんな走りを見せてくれるのか、興味と期待は尽きない秋である。

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